english简体中文繁體中文ハングル語
九十九島パールシーリゾート
 
リゾートマップ&施設料金一覧
パールシーの遊び方
ショップ&レストラン
アクセス情報
よくある質問
お問い合わせ・パンフレット請求
フォトギャラリー
団体利用申込書ダウンロード
教育旅行

 

九十九島CLUB
九十九島ビジターセンター
佐世保の天気
宿、ホテル予約サイト


出航予定時刻表

スタッフブログ

公式Twitter 公式Facebookページ 公式Youtube

九十九島動植物園 森きらら



 九十九島は、佐世保港の外側から北へ25kmにわたり島々が点在する海域のことで、島の密度は日本一といわれています。
 九十九(くじゅうく)とは数がたくさんあるという意味で使われる例え言葉で、実際の島の数は208あります。

<由来>
鹿子前と牽牛崎の間の小湾の根元にある島という意味から「元の島」と名付けられました。
<歴史>
島の奥は埋め立てられ、戦前は体が弱い徴用工員兵の作業場として塩釜が作られた。
以前この島には炭鉱があって、現在の海きらら近辺に石炭を集積していた。
昭和15年頃は炭鉱跡に人々は水を汲みに行っていた。
戦後、朝鮮の引き上げ船が南側の岬に激突して大破し帰国を断念した。
船は鳥ノ巣の東側の入り江にしばらく放置され、朽ちていった。
<伝説>
 昔この島には二ツ尾の大蛇が棲んでいた。ある時その身を地上に横たえ日向ぼっこをしていた大蛇を弓の名人が見つけた。名人は弓を満月のごとく引きしぼり、大蛇に放った。矢は見事に命中し、大蛇は真ッ二つに裂けた。大蛇は怒り立ち鎌首を立てて天に昇ろうとしたが力尽き、立ち往生してしまった。大蛇の死体はやがて石と化し、「龍岩」と呼ばれるようになった。また尾の方は飛び切れ海辺に横たわり、石となって「飛切(干切)」と呼ばれるようになった。この大蛇は腹中に卵をかかえており、その卵が四辺に散乱した。よってこの弓射りの場所は今でも「子下し」と呼ばれている。
情報提供:鹿子前地区、出典:佐世保の地名は語る
▲ページトップへ戻る



<由来>
松浦藩時代に、放牧場であったのが由来と言われています。
<歴史>
以前はトマト等の野菜を育てていた段々畑があった。
昔、伝染病等で亡くなった人々を火葬したと思われる土台が残っている。
<言い伝え>
海賊船がこの島に停泊していた、という言い伝えがある。

松浦党が遠く大陸まで海賊行為をし、陸地より目立たない九十九島を基地に利用していた、と伝えられている。
<民話>
 昔、牧の島で牛と馬が東西に分かれて大乱闘を演じた。島に居合わせた一頭の鹿は様子をうかがい、馬が勝ちそうになったので馬に加担した。ところがまもなく牛が勝ちそうになってきたので今度は牛に加担しようとした。しかし、牛はたいそう怒って鹿の角をへし折ってしまった。鹿は泣く泣く馬のところへ戻り、そして角のない鹿として一生を過ごした。これが『馬鹿』という言葉の語源である。
 一説によると、この東西に分かれての馬と牛の争いは源平合戦をたとえているとも言われている。
<伝説>
牧の島の東側にある小さな入り江は昔、海賊船の集合地であった。ある時、地元の者がここに潜んでいた一隻の海賊船を捕らえ、金銀宝玉を奪ったうえに海賊達に石の重りをつけて海中に投げこんだ。その時海賊の一人が沈みながらも海面に顔を出し、「この恨み七代の後までたたってやる」と言いつつ沈んでいった。その後、呪いの言葉どおり、海賊を襲った者の家系には必ず体の不自由な子が生まれた。
一説では、この伝説における人物は「地元の者」「海賊」ではなく源平合戦の折、平家に加担していた松浦水軍がおちのびてきた時、源氏に寝返った者が、財宝の警護をしていた平家の武士を襲ったとも言われている。
夜間にこの付近の海上を通ると必ず舟幽霊につけられて遭難した。このため船頭たちはここを『魔の浦』と呼んで恐れた。
情報提供:鹿子前地区
▲ページトップへ戻る



 ライオンが寝そべっている姿に見えると言われています。
▲ページトップへ戻る



 上空から見ると特徴ある島姿がより際立ってみえます。樹木がとりわけ美しい島です。

<由来>
神功皇后が男装のお姿で出征された三韓征伐を終え本土へ凱旋する途中、元の女の姿にもどられるため「かつら(鬘)」をぬがれ海に捨てられた。そのかつらが南東の風に乗って流し流され、この島に流れついた。この伝説により鬘島と名前がつけられた。しかし、この漢字が難しいので後に「桂」の文字に変更されたといわれる
出典: ふるさと歴史散歩・佐世保
▲ページトップへ戻る



 オオブカ、コブカの二つの島からなり、典型的な南九十九島の景観を形づくっています。

<伝説>
 昔、九十九島に海賊達がはびこっていた時代があった、その時海賊たちがこの島に集まって各々力だめしをした大石『力石』が残っているといわれている。
出典: 佐世保年鑑
▲ページトップへ戻る



 ひとつの島が、真っ二つに割られたような珍しい姿の島です。
▲ページトップへ戻る



 いくつもの深い入り江をもった島の形が特徴的で、南九十九島のシンボルとなっています。

<言い伝え>
平戸藩松浦家の所有地で鷹狩りなどに使われていた。また、松浦家兵船のつなぎ場所であった。
上質の土が採れ、瓦を焼くために使われていた。
現在の養殖いかだ付近には、2つの墓がある。
三ヶ所に木の化石がある。
平戸藩の罪人をこの島に島流しにし、住まわせていた。
情報提供:船越地区、俵ヶ浦地区
▲ページトップへ戻る



 陸地と橋でつながった島で、九十九島での真珠養殖発祥の地と言われています。
▲ページトップへ戻る



 昔、殿様が釣りのじゃまになった木を切ろうとして降りおろした「斧」を落としてしまったという由来をもつ「斧落とし」と、荒々しい奇岩に覆われた「丈ケ島」。


<由来>
 昔、平戸藩松浦侯の殿様が鷹狩りをしていた。しかし、殿様はそのうち鷹狩りに飽きられ、釣りをなさるようになった。そこで釣り場を探し回っているうちに、この島にいきついた。しかし、ちょうど良い釣り場には木があって殿様は、その邪魔な木を切ろうと家来にヨキ(斧)を持ってこさせた。そして殿様自らその木を切ろうとされたが、慣れない手には無理で斧を海に落としてしまった。それから誰ということなくここは斧落し(よきおとし)と呼ばれるようになった。

<伝説>
 昔、九十九島の村々に住む若い娘が次々と姿を消す怪事件が起こった。村人が調べたところ、どこからともなくやってきて丈ヶ島に棲みついた竜のしわざとわかった。村人は竜討伐に知恵をしぼったが、手におえる代物ではなくとうとう領主に訴え出た。領主はさっそく鎮西八郎為朝の再来と噂の高い弓の名人である家来をつかわし、竜討伐を命じた。名人はみごと弓で竜をしとめた。その時竜はものすごい叫び声をあげて鎌首を持ち上げ天に舞い上がろうとしたが力つき立ち往生し、そのまま石になってしまった。人々はそれからこの岩を竜石(立岩)と呼ぶようになった。

※鎮西八郎為朝… 平安末期の武将・源為朝。九州に勢力を張っていたので鎮西八郎と称された。豪勇で弓の名手とうたわれた。
出典:ふるさと歴史散歩・佐世保
▲ページトップへ戻る



 「千畳敷き」と呼ばれる広い岩場があり、遊覧船からその美しい景観を眺めることができます。

<由来>
潮が引いたら島が長く生えてくるので「ナガハエ島」と呼ばれるようになった。
情報提供:俵ヶ浦地区
▲ページトップへ戻る



 こま犬のような奇岩を持ち、隣の長南風島の奇岩を合わせ見るとちょうど神社の参道のようです。
▲ページトップへ戻る



 干潮時の「潟が干上がる」様を「潟が干」(ガタガカン)と呼ぶうちに、なまってついた名前と言われています。

<由来>
干潮時この潟が干上がるので「潟が干上がる」と書いて潟が干(ガタがカン)と呼ぶうちになまり、この名前になった。
人によっては「ウゲ島」とも呼ばれる。
情報提供: 鹿子前地区
▲ページトップへ戻る



 干潮時にはひとつに見える島が、満潮時には三つの島に別れます。浜が美しく、真珠の養殖場もあります。
▲ページトップへ戻る



 馬の鞍に形が似ていることからこの名前がつけられました。干潮時には陸まで歩いて渡れます。

<由来>
神功皇后がこの島の松に立ち寄られ、馬の鞍をかけられた。このことから鞍掛島の名前がついた。
昔、七郎神社の祭典日にはたくさんの神々が集まられ、この島の松の木に次々と馬の鞍を掛けられた。それは松の枝が海面すれすれにまでたわむほどだったという。
出典:観光地の伝説
▲ページトップへ戻る



 神功皇后のご愛用の木枕が、嵐で船から投げ出され、流れついた島との伝説がある島です。

<由来>
三韓征伐から帰られた神功皇后が不要となった木の枕を捨てられた。それが流れ着いた島であることから枕島という名前がついた。
また、島の形が木の枕に似ていることから、この名前で呼ばれている。
<歴史>
島の上の方には海で遭難して亡くなった人々を祀ったほこらがある。またこの島では、海で亡くなった人の火葬もしていた。
昭和18年頃砂取りに入った時、島の北側の海岸から人骨八体が発掘された。いつの頃のものかわからないまま崇りがあるとして海岸近くの山に移送されたともいわれる。
情報提供: 俵ヶ浦地区、鹿子前地区、出典:観光地の伝説、ふるさと歴史散歩・佐世保
▲ページトップへ戻る



 潜水艦が浮かんでいるように見える島です。島の上部にあるクロマツが帽子のようにも見え、特徴ある景観となっています。

<歴史>
戦時中、島影が潜水艦のように見えたため米軍がこの島を誤爆し、たくさんの魚が死んだ。
戦後、米軍の弾薬処理場として接収されそうになった。
情報提供:鹿子前地区、出典:九十九島に関する伝説及び昔物語
▲ページトップへ戻る



 外海側は荒々しい断崖で、東側の入り江には静かな砂浜をもつ島です。夏場はキャンプも楽しめます。

<昔話>
 昔、この島に大蛇が棲んでいて、島の大きな岩の溜まり水を飲んで暮らしていた。ところがある石屋がその岩を崩してしまい、石屋は大蛇の呪いで死んでしまったという。
<歴史>
沖合いの海中のどべ(泥)をとり道路工事に使っていた。
戦後は米軍の海水浴場になっていたが、その後日本人にも開放された。現在は私有地になっている。
この島で金や銀が採れるという噂があり、実際に掘りに行った人もいる。
<伝説>
 源平の戦いに敗れ金銀宝玉をたずさえて落ちのびてきた平家の武士が、夜陰にまぎれ小舟でしばしばこの島に渡るのを、里人のひとりが見かけていた。これを聞いた松浦党がその探索をしたが、ついに発見できなかったと言う。
 戦後、佐世保在住のある人が色々な文献による調査の結果、まちがいなく平家の財宝が隠されていると信じ、私財を投じて人を雇い発掘を試みたが、夢半ばにして亡くなり、ついに発見できなかったという。
 足利幕府末期の戦国時代、平戸松浦家と大村家も勢力争いの戦いに明け暮れていた。
 天正14年(1586)、松浦家の武将・佐々入道加雲は、大村家の宿将・大村与市の守る彼杵城を攻めたが城は容易に落ちず、かえって大村勢の反撃にあい敗れた。加雲は部下数名と共に船で平戸にのがれようとしたが追手に迫られ、金重島に隠れた。しかし敵の探索にあって発見されてしまい、加雲はついに大岩の上で自刃した。島の南側にあるこの大岩は、加雲岩と呼ばれている。
情報提供:鹿子前地区、大崎地区、出典:九十九島の会、ふるさと歴史散歩・佐世保
▲ページトップへ戻る



 砂浜もあり、シーカヤックを楽しむ人達の格好の休憩ポイントとして人気がある島です。
▲ページトップへ戻る



 相浦桟橋からフェリーで約20分。水平線に浮かぶ姿は台形と三角形がつながったような島形で、遊覧船からもその姿を見ることができます。頂上の公園からは南北の九十九島や五島・平戸の名勝が一望できます。また、美味しい「ちくわ」や「ウニ」の産地でもあります。
▲ページトップへ戻る



 相浦桟橋からフェリーで約50分。「クルス(十字架)の島」が名前の由来と語られているように、7割がカトリック信者です。島のシンボル「黒島天主堂」は国の重要文化財に指定されています。また、豊かな自然に恵まれており、樹木に黒く覆われた姿が黒島の由来だという説もあるほどで、希少な生き物が生息する島としても有名です。海水のニガリで固めた独特の風味と硬さが特徴の「黒島とうふ」が有名です。
▲ページトップへ戻る



<伝説>
 この島には大蛇が棲みついていたため人々はそれを恐れて近づかなかった。
 今でも島の中央には東から西にかけて大蛇が行き来していた後が割れ目になって残っているという。
出典: 九十九島の会
▲ページトップへ戻る



<由来>
鼠の大群が北の方角からこの島に泳ぎ着き、漁師の網にかかったことからネズミ島との名前がついた。
大崎地区ではヤジマとの呼び方もある。
この島には兎も多く、兎島と呼ばれていたこともあった。
※現在ウサギは生息していない。
平戸藩松浦家の弓の矢竹は、この島から採取されていた。戦いに使用される矢の先端は強力でなければならないので竹の根元から摘み取られていた。このことから、この島を「根摘島」と呼ぶようになった。
 この島は一般的にはネズミ島と呼ばれているが、鼠島・ヤジマ・兎島・元杭島・根摘島・元栗島と南九十九島で一番多い6つの呼び名を持っている。
情報提供:鹿子前地区、大崎地区、出典:観光地の伝説
▲ページトップへ戻る



<伝説>
 昔、相神浦飯盛城主、松浦丹後守親が石岳で猪狩りをしたときに放った矢の一つがこの島に刺さり、その矢がそのまま根付き、笹が生えるようになった。そのため、この島は笹島と呼ばれるようになった。
出典: 佐世保年鑑
▲ページトップへ戻る



<由来>
島の形が馬に似ていることから馬島と呼ばれるようになった。
昔、たとえ治っても顔にひどい跡が残ってしまう病気・天然痘は、魔の病といって恐れられていた。この病気にかかったものは発見しだい殺してしまう藩もあったが、ある時、さる庄屋の一人息子がそれらしき病にかかってしまった。庄屋は息子を小船に乗せて隠れ家を求めた。やがて人々が魔の島と呼んで寄りつかない島にたどり着き、岩かげに小屋を作って息子をかくまった。庄屋は対岸の俵ヶ浦の寺に寄宿し、夜になると人目を忍んで食べ物を息子に運んだ。幾月が過ぎた後、父親の祈りが神仏に通じたのか、息子の病は痕も残らず完治した。庄屋親子は晴れて郷里に帰ることができ、こんな間(ま)のいい話はない、ということでのこの島を「ましま」と呼ぶようになった。
情報提供:鹿子前地区、出典:ふるさと歴史散歩・佐世保
▲ページトップへ戻る



<歴史>
 太平洋戦争中の昭和16年にできた「第2相浦海兵団および海軍警備隊」の施設(現在の大潟町陸上自衛隊駐屯地)に、戦後昭和21年「アメリカ軍歩兵隊第34連隊」が新兵舎を建て、「キャンプ・モーア」として使用開始した。その後昭和25年に朝鮮動乱が勃発。米軍はこの頃から帆瀬をめがけて砲撃の訓練を始めたと思われる(訓練を終えた兵は、戦地へと送られた。)。帆瀬の形が変わってしまうほど撃ち込んでいたらしい。昭和28年、「朝鮮休戦協定」が交わされ、翌29年キャンプ・モーアは閉鎖、昭和30年に日本に返還された。
情報提供:鹿子前地区・海上自衛隊資料館
▲ページトップへ戻る



<歴史>
 「テンモク」とは、茶の湯に用いる抹茶碗の一種。
「天目茶碗」に、島の形が似ているので名付けられた。
※天目茶碗…浅くて開いたすりばち形の茶碗
出典: 佐世保の地名は語る
▲ページトップへ戻る

戻る


会社概要 | プライバシーポリシー | リンク集 | マリーナ係船 | 九十九島ボランティアガイドについて | サイトマップ

九十九島パールシーリゾート 〒858-0922 長崎県佐世保市鹿子前町1008番地
TEL:0956-28-4187 FAX:0956-28-4107